人が過去に見たであろう映像、それを潜在的映像というかどうかは解からないが、そういったものが僕らにはあって、それを観ると必然的に何だか解からないけどいいな・・なんて事を思ってしまうのかもしれない。

 春のサクラ、夏の入道雲、秋の夕暮れ、冬の街頭、そうやって僕らの脳みそには潜在的映像という名のテンプレートが備わって、それを無条件に受け入れるようになっているのかもしれない。

 主にそれはきっと幼少期や青年期に構築されているのだろう。


 でも、出来れば、そうじゃなくて、潜在的映像を与える側に・・・なれるわけは到底無い。それは現実じゃないから。それは僕らには操作できないから。すべきものでもの無いから。