AVを鑑賞する際に私は「是非陰部を!」といった気持ちを隠せない。がしかし、延々と陰部ばかりを映し出したAVを見せられたときには発狂してしまうであろう。

 「こんなもので抜けるか!」と。

 一時期は「肌色の折り紙と、音声で抜ける」とまで言っていた私であるが、実際冗談で、本当の所は様々な角度から、その過程を映し出したものこそAVであると思っている。


 確信ばかりを赤裸々に露呈され、それだけ見ろというのはどこか強情で、それだけがその確信を構築しているのではなく様々な要因、多面的側面が幾重にも折り重なり引き起こされているという事。そして、流れているという事。
 それを理解しているにもかかわらず、それだけを見せるというのは確信犯であるが、それがあってこその核心であるにもかかわらずそこを隠してしまうというのはいささか軽率ではないのかと私は考える。