ろくでもないもので、誕生日と言うものは日常に埋没したドラマなのかもしれないという気持ちが、思いが実に空しい。
 誕生日だから!とスーパーで本物のビールと牡蠣フライと鯖缶を買い。「豪華だ」と思った自分が実に空しい。

 こうやって日々日常を消化し霞でも掴むように生きていく事に対してホトホト疲れを感じている自分に気づく。けど、そんなものに対して感傷的になっていては生きていけないという事、盲目的になるという事、それのみにこそ生きていける。ある意味での柔軟性や、タフさといったものがあると信じてきた。しかし、最近そうでもなさそうだと気づいた。

 現実を見ていくという事、現実から逃れるという事、逃れた先も現実であるという事、その先にも後にも所詮それは自分が体験しているが故の日常であり、自分が死のうと、他人が死のうとそれは所詮日常に過ぎず、でも、そうじゃなくてそれをドラマだと、奇異な事だと受け止めて生きる事にこそ真価を見るのではないのかと、そう、最近思う。

 僕がこうやって煙草をふかしながら書いている文章もいつかは忘れ、「若かったよ、あの頃は」なんて事を言いながらもナルシズムの海へと泳いで去っていく事に対して、いくであろう事に関して僕は否定は出来ない。これは悲観的であり希望的観測だ。

 僕が変わろうとも世界は変わらない。世界が変わろうとも僕は変わらない。残念ながら自分の心と足と、思いでのみ自身を変えられるのであろうという思いのみで僕は稼動しているのであろう。