言われて解る写真と、言われずとも解る写真と、何を言われ様が解らない写真。そう考えるとタイトルの重要性に気付く。見えざる物の介在を良しとして自己理解だけで進むのはいささか軽率であるが、私はついついその見る者の感受性に頼ってしまう。
 どこまでやったら見えてくるのか。どこまでやったらエゲツナイのか。その狭間は実に狭く曖昧に思える。好きな様にやりすぎると理解されず、かといって理解されようと媚びると陳腐になってしまう。(ように思える。)あまり言葉には頼りたくない。方向性を決めてしまうから。それは写真の可能性を削いでしまう事になると思っているから。かといって言葉がもの凄く達者な訳でもない。いい訳かもしれない。
 概要を言葉で固めてその中で写真で揺さぶる事、それとも、概要を写真で覆って、言葉で真実を語る事。いや、言ってる事は変わらない。私は言葉が苦手なのだろう。

 言葉で表せない事を写真で、言葉で表せる事を写真で、そう出来たら凄く良いと最近切実に思う。勉強は重要だと、そう思う。