残念な事に私はドキュメンタリーが何かという事がさっぱり解らなくなってきた。事実を正確に伝える事がドキュメンタリーでは無いと常々思っているので、それはルポルタージュという事にしておくとして、それ自体が何の為にあるのかという事が解らない。
 事実を伝えるだけであればつまらないルポルタージュで事は足りるだろう。しかし、結局私は実に弱い人間であるので周りに大いに影響を受けてしまいがちで、それを覆い隠す事は出来ない。極力排除しようと思うのはその後に過ぎず、撮ってしまってからその様な事を思ったとしても排除しきる訳は無い。しかし、それ自体がある意味でのドキュメンタリー性をはらんでいるのではないだろうかという、私と社会のドキュメンタリーとでもいうのだろうか、無理矢理な自己納得を自分にしてみたりしているのが現在だ。

 ドキュメンタリーとは、「膨大なリサーチと検証に基づいて製作されたフィクション」になるのだろう。それはある種のエンターテイメント性をはらんでいなければいけない。ワクワクさせたり魅了したり。やる事は膨大だ。


 しかし、それを写真で実現する事は実に難しい。きっと無理なのではないのかとも思えてくる。映像で見せる事に劣っているとかつて書かれたていたが、それは事実だろう。連続した流れの中には人を誘い込む力があると思う。そこに止まる事を許さないというのは言い過ぎかもしれないが、流れ続けるメッセージには強みがある。実際に海外(主に欧米?)では写真と動画を組み合わせたものが主流となってきている。しかし、そこで今一度問いたいのはそこで立ち止まるという行為がとれるのは写真ではないだろうかといことだ。そこに解釈の違いが生まれる事を良しと出来る事は今の世の中的に望まれている事かどうかは解らないが、それが出来る事は私は悪い事だとは思わない。

 そう考えた時に写真におけるドキュメンタリーというものは一方的なイメージの強制ではなく多角的な解釈を求める手段としてあるべきではないだろうか。(別にドキュメンタリー映画が一方的なイメージの押しつけだというつもりは無い。私があまりにも映画を見ていないから言えないだけだ。)
 被害者は苦労していますというイメージを与えて、その加害者の像を悪だとイメージさせてしまうようなことにはもう写真的に限界が来ているのではないだろうかと私は思う。思うけれどそれは確実に必要な事だと思うが、あえて私がやる事ではないとも思う。


 さて、散々ドキュメンタリーが云々と書いてきたが私が果たしてドキュメンタリーを実践できているかという事は冒頭にあるよう疑問だ。ドキュメンタリーとは?と考えた時にそれが、行為がそうなのか?それとも事象があってから成立するものなのか?という事が浮かんだ。
 別段何も無い様な事を撮り続けてその場所や人や物が変化を遂げていく様をとらえる事がドキュメンタリーなのか。それとも、何か特別な事象を抱えた場所や人や物を端的にとらえる事がドキュメンタリーなのか。そういった事を考えると、その双方を兼ね備えたものがドキュメンタリーたりえるのではないのかと思えてくる。
 しかし、世の中にはその両方もあり、その両方をも兼ね備えたものが存在している。それらを見ているうちに時間と事象は一つの数値として換算できてしまうのではないのかと思えてくる。時間と事象を単純に数値化してある一定の数値を迎えた時に初めてドキュメンタリーたり得てくるのだろう。しかし、その数値が多かろうが少なかろうが、それはドキュメンタリーたり得ないのではないだろうか。緻密なデータを集め過ぎたが故にそれはルポルタージュとなってしまい、逆に浅いデータを元にくみ上げてしまってはフィクションになってしまいかねないだろう。
 その間が、ドキュメンタリーなのかもしれないと思えてくる。


 そして、ドキュメンタリー写真と聞いて想像するのはきっと旧世紀的なものを想像してしまうだろう。記号として私達の頭の中に刷り込まれてしまっているだろうモノクロ35スナップ的写真だけがドキュメンタリーではないと思う。サルガド氏や樋口氏の写真は嫌いではない。むしろ初めて買った写真集はサルガド氏のものであるし、樋口氏には学校で教授いただいた。しかし、彼らの手法で事象を捉えるには現在はあまりにも多様になり過ぎているだろう。以前の方法で捉え切れていたものが今では捉えきれていないのではないだろうか。捉えきれなかったであろうものを捉えるにはまた別の手段を選ばなければいけないだろう。その模索の為に捉えられていたものを蔑ろにしてしまう事は痛ましいが、しょうがないと納得させていくしかないと思う。もし、その両方を捉えられたのならばそれは大変素晴らしい事だろう。


 写真は写真たりえるドキュメンタリーをしっかり模索していく事が今は重要だと思う。写真が持つポテンシャルをいかせている人達は多い。しかし、それがドキュメンタリーで活かせている人は少ないのではないだろうか。なので現代アート系の人達に今一度ドキュメンタリーも視野に入れていただけないだろうか。
 彼らがやっている事がドキュメンタリーというくくりの中に私は含まれていると思し(私が勝手に含んでいる人も多くいる)、尊重もするし羨ましくも思う。だから故に、彼らにドキュメンタリー的(的なというのは事象がってかんじ)なものに取り組んでいただけたらありがたい。いや、取り組んでいただいている方も多いと思うけれども、今一度お願いしたい。


 何が言いたいのかは解らない。ただ見てみたいという思いだと思う。きっとこれはコンペに落ちた者の負け惜しみだ。