ポートレイト写真を撮る時に重要なのは表情なのだろう。その表情をなんと表現したら良いのか解らないけれど「無」に近い「喜怒哀楽」のどれかが混じった様なものが良いのではないのだろうかと思い、私は写真を選んでいる。


 大変良く知っている人物。親兄弟、友人知に恋人といった対象を撮影する時に私は大変苦労する。私は彼らの多くの表情を知っていて、その表情が素晴らしいという事も十分に知っているからだ。
 彼らと私の間にカメラが入ると私はもの凄く彼らの表情に敏感になる。そして、彼らは私の向けたレンズに、敏感になる。そこには多少の緊張や恥じらいが生まれてしまい、なかなかうまい事彼らの素敵な表情を捉える事が出来ない。
 反面時間だけはいくらでもかけられてしまう。大きなカメラで「動くな」と言ってしまえばある程度のストレスを与える事も可能だ。そえによって表情の固定という事も出来てしまう。しかし、果たしてそれで良いのかという疑問も抱いてしまう。


 一方、全くと言って良い程に相手の事を知らない状況では、意外と素敵だと思える表情を捉える事が出来てしまったりする。それは多分、私が彼らの事をあまりにも知らないという事が逆に効果的に働いているからかもしれない。
 私は彼らの素敵な表情を知らない。知らないが故に選択する自由を奪われてしまう。そして同時に、彼らは全く私の事も知らない為に、極度のストレスを味わう事になる。
 撮影をお願いして、私の巧みな話術により笑顔を引き出す事や、無駄に私自身の事を話して無理矢理且つ短時間で私の事を理解させると言う最低限の事をしたとしても、彼らは撮影される事にストレスを感じているだろう。それがかえって好都合であったりもする。


 人を撮るのは昔から好きだった。その理由はいまいち解らない。別に人が好きな訳ではないが、あえて言うなら興味がある。という程度だ。撮ったから彼らの事を理解出来るという訳でもない。むしろ増々解らなくなる。しげしげとその表情を見ているとこの人物が何なのかさっぱり解らなくなってくる事すらある。しかし、人の写真を撮って後から見るという事は単純に楽しいと昔から思っている。