私の故郷には原子力発電施設がある。そこで暮らしている人にとっては当たり前の存在であり、その中で働き、その傍らで眠るという事が日常だ。そして、かつての私にとってもそれは日常だった。
 しかし、故郷を離れ暮らしていくなかで原発に関する社会的な意見を見聞きしていると私の中で外側と内側の温度差の様なものを感じた。
 様々なメディアで語られている事とは全く関係なく、私の故郷や原発を抱える地域では人々が暮らしている。


 私達の想像を超える様な現実が起こるかもしれないという事を考えながら生活するのは大変だ。それを私達は考えない様にと生活する。そこにはある種の忘却の様なものが作用し、生活に支障のない様に頭の片隅へと追いやる。
 しかし、私達はその事を一度も忘れた事など無いはずだ。それは多分いつ来ても問題が無いという覚悟の様にも思える。 あっけらかんとした私の母は「どーしよーもないべさ」と言う。そんな母の言葉が意外と私には重い。


 この様にして私はようやく故郷というもの、ひいては原子力発電というものの重大さを知る事が出来始めている。
 故郷に原発があるからようやく故郷を思えたという部分もあるし、原発が故郷にあったから原発の事を思えたと言う部分もある。そして、私が写真をやっていたからその双方を思う事が出来たとも言える。
 そしてようやく少しだけ故郷が愛おしく思えてくる。