6月に大阪で開催した個展に寄せて書いた文章


 2011年3月11日に起きた東北大震災及び、それ以前から続いていた電力会社の杜撰な管理体制によって引き起こされた原子力災害に伴い、日本のみならず世界が今一度原子力放射能、核についての考え、思いを確かめているものと思います。

 私の故郷、北海道岩内郡にも原子力発電施設があります。私の生まれた1984年より一号機の着工が始まり現在ではMOX燃料を使用する事が可能な3号機も完成し、稼働を始めています。
 物心つく以前より存在し、それが安全であるという教育を受けてきた私は高校を卒業して東京に出てくるまで全く違和感というものを抱いた事はありませんでした。むしろそれは安全でクリーンであり、原子力PRセンターは楽しく、私達の生活を潤し、支えてくれている存在だと思っていました。
 しかし、故郷を離れ東京へ出てきて、写真学校で樋口健二氏に出会い私の中での思いが若干の揺らぎを始めました。彼は70年代より原子力発電における被曝労働者のルポルタージュを多く扱い発表していました。その様な経験を授業の端々で強く訴えて聞かされる事で、私の中での原子力安全神話は揺らぎ始めたのだと思います。

 そういった経緯もあり私は2007年より故郷の写真を撮り始めました。しかし、最初は原子力発電施設を主軸に扱う様な撮り方でもなく、ましてや発表という事すらも考えてはいませんでした。誰も私の故郷など撮ってはいないだろうという思いから、少なくとも私が撮っておく事に価値があるだろうという思いから撮り始めました。
 撮り始めて数年。私は不意に原子力発電の事が気になりだし、極めてぼんやりと調べ出しました。
 そこから見えてくるのは賛成も反対も様々な意見で、そのすべてが私にはどうしても現場不在に思えてきてしまい、それが実際に住んでいる人間と、その事について考えている人間との温度差の様にも感じられました。

 それから私は原子力発電施設というものを主軸に置き作品制作を始めました。原子力発電施設を意識しだすと私の故郷へのまなざしは徐々に変わり、この写真を作品として世に出さなくてはいけない。現状に置ける原子力発電施設とそこに暮らす人達の生活をもっと多くの人達に伝えなければいけない。そういった思いがつのってきました。それはある種のの使命感であり、私の作品制作を強く後押しするものでした。

 そんな思いを抱いてから2年程過ぎた年に何故だか私の中で故郷への考えが、この場所があるからこそ撮れるもので、もし仮に原子力発電施設に何かが起こってしまったらここへは来れなくなり、撮る事も難しくなるだろう。だから、原子力発電施設とかは二の次にして、ここの風景を、ここの人達を撮るべきだろう。という思いへと変わっていきました。
 それは多分私の故郷の画家「木田金次郎」の作品を観たからかもしれません。彼の作品は郷土愛に溢れ、彼自身も漁師という仕事をしながらも画家という人生を捨てずに必死に描き続け、土地に根ざした画家故の作品だからこそ影響を受けたのかもしれません。
 彼の描き出す海の荒々しさや、山々の緑、そこに暮らす人達の逞しさを現代に置き換えて撮りたい。そう思ってしまったのかもしれません。
 それが現在私に出来ているのかと思うと少しばかり臆してしまいますが、これまでの様な写真とはまた異なったものへと変わっていくのだろうと、私の中では確信としてあります。

 私自身の原子力発電に対しての意見は勿論反対です。しかし、私の故郷の事を考えた時に私はどれだけ強く反対出来るだろうかとも考えてしまいます。
 この場所が今まさにこの状態でいられるのは原子力発電施設があるからに他ならないのではないか、もし無かったとしたらこの町は借金で夕張市にも似た様な状態になっていたのではないか。

 テレビで浜岡原発停止というニュースが流れ、近隣に住む女性がインタビューに答えていました。
「このまま運転を続けていたとしても良いとはいえないが、止めてしまってもまた良いとはいえない。」
 そんな事を言っていました。

 私はこの言葉と似た様な事を母からも耳にしました。最終的な言葉は「どーしよーもないべさ」というものでした。


 今後は、そこで暮らしている人達であったり、そこにある景色といったものを一端社会とは切り離して考えて、そこから社会にもう一度接続し直すという事をしていこうと思っています。それは先に書いた「木田金次郎」の影響でもあるし、そのプロセスを踏む事によってより深く私の故郷の置かれている現状を把握出来るのではないのかという思いがあるからです。