http://www.tokyo-np.co.jp/00/kgw/20060901/lcl_____kgw_____004.shtmlの上の方。

 この現場に偶然訪れる事が出来た。


 そこには大量に手向けられた花束が目に付いた。もしやと思いそこで釣りをしていた老人に尋ねてみたところやはり、そうだと言う。
 そこにはその老人も含めて釣りを楽しむ人たちが居て、バーベキューを楽しむグループが居た。永遠と続くであろう日常が流れていた。しかし、そこでは一つの続くはずであろう日常が一つ絶たれたのである。

 永遠と続くであろう日常の中にポツンと一つ穴の開いた情景は、やはり異様でどこか不自然なモノに僕は感じた。


 改めてそこで撮影したネガをプリントして気付いた事は、その花束の周りにゴミが少数ながら混じっているという事だ。


 ふと思う。


 そこにある人の断絶された情景は、ゴミ同然なのか?その場所にはもちろん日常が流れている、しかし、断絶されたであろう現実が目の前にあるにも関わらず、人は平然と日常を謳歌し、平然とゴミを捨て、何事も無かったかの様に振舞う。そこには何の後ろめたさも孕んでいないのだろうか?聞いてはいないが、そうでなければそういった行為は出来ないのではないのだろうか?
 しかし、自分もその現場で写真を撮った。撮らなければいけないという理由無き義務感と、写真家だという変な自信がそうさせた。その行為に対して今更ながら変な後ろめたさを感じる。しかし正しかった・・・答えは無いが、撮ったという現実だけは台所にぶら下がっている。責任は果たさなければいけない。