几帳面で居弱体質なパンクロックギターボーカリストから曲を作るには大きく分けて二通りあると以前聞いた。それは、ジャムセッションをしながら「コレいいジャン!」というノリでそこから広げていく方法と、メンバーが曲を作って持ってきそこから編曲云々をしていくと言うものだ。


 写真に関しても似た様な事が言えるのではないか?

 場所や事柄に対して興味を持ち、そこから撮り始め、ある程度溜まってきた時点でそこから表出してくるモノを汲み取って形にしていくという方法。
 そこにはやはり様々な現実が介在し考えが二転三転し長い事かかってやっと一つの作品が出来ると言う結果になるだろう。その半面様々な副産物により、また新たなテーマが現れると言う利点もある。


 それに対して、ある程度のコンセプトを固め、知識情報を収集した上で場所や事柄にアプローチをかけると言う方法だ。
 もちろんこちらの方法でも現場に赴けば必然的に様々な現実に遭遇するであろう。しかし、そこで撮り手はその現実に対してどういった対応をとるかでまた、コンセプトが転ぶか、定まるかが決まってくるだろう。それによって受けた感情にばかり流されてしまうと、写真群事態に確固たる力が薄れてしまうかもしれない。

 どちらも一長一短だが、写真作品制作に当たっての方法論としてこの二つに大別出来るのではなかろうか?


 情報や知識を蓄えてから受ける現実と、全くの無知で出会う現実。そこにはどの様な差異が生まれるかは今だ実感として不明だが。そういった行為を常に平行して行っていくことには価値があるであろう。


 サザンの曲が同じ様に聞こえるのとどこか似ている様で違う様で・・・


 21時10分 石田徹也を知ったから。


 遭遇しよう現実と、湧き起こそう感情を、吐き出そうフラストレーション。


 芸術家はある一定のストレスを感じなければいけない存在なのかもしれない。そのはけ口として作品は成り立っているのかもしれない。


 疑問を感じた時。後ろめたくなった時。やるせなくなった時。やさしくなれた時。感謝した時。感情に変化を持たせよう。


 一心不乱に我武者羅に、思う存分やれる今を大事にでも、臆病に為らずに続ける事が重要だ。そこから起こる変化も何もかも自分のものに出来たら本望だ。


 最後に、清潔でなければいけない。オナニーをするから不潔なのではない。いや、むしろ清潔だ。清潔と言うのは人間らしくあれという意味を込めて、もっと単純に貪欲に、作品にエネルギーを注がなければいけない。そんな矛盾も孕みつつ。


 芸術家は思考の臨海を突破せよ。