あまりにも似た発言に正直驚いた。

 濱上 英翔さんの発言
「・・・
 僕等は唯、写真機の手足に過ぎないのだと思う。
撮影機を運び、距離を捻じ込み、唯、ボタンを押す。
刹那の化石は、川底の砂金を掬うようなもので。
相対から生まれる価値にすぎないのだから。
・・・」

 友人T氏の発言
「カメラが機械である以上は、人が機械にあわせて動かねばならない。
撮影者の意思など関係なく、
僕らは機械に感光の許可を与える機械だ。
主は被写体だ。お前の勝手な「テーマ」ではない。
僕らは流れに従って「押す機械」であれば良い。
CAPA的な「カメラは体の一部」なんて嘘。「体はカメラの一部」。
柔軟で曖昧な人間が、機械に合わせるのがスジだろう。
被写体こそナマモノで、写らぬ自分を気にかける事もない。
カメラを作動させる為の、歯車となれ。」


 僕らはいつまでたっても写真というものにはあらがえない。もう、写真に食われてしまった人間故の発言なのかもしれない。