ある種の確立しすぎた自己の思想というものを語る時それはあまりにも空虚で、吐けば吐くほどに嘘っぽく現実味を失っていく。
 そういった現実はやはり誰の胸にも備わっているもので、それを抑制しようと思い一人無口になろうと信じるのだが、その確立した思想以外に話す事など何も無く自分はとてもつまらない人間なのではないのかという思いに無償にかられる。


 僕が生きていく上での鉄則や、理由などは他人に語るまでも無く、胸に留めその変化をただただ待ち望み窺うのみに意味を為す。
 そうしていくうちに自己の殻というものを激しく形成し他者を寄り付かせなくなっていってしまうのではないのかという恐怖、及び懸念を抱いてしまう。
 故に発言をし、それに異論を唱えられ、それを受け入れられずに反論する。打算。


 学習などという言葉を知っているにも関わらず、意味をも知りえているにも関わらず反復してしまう愚行行為連鎖の連鎖。


 辛うじて助けられる仲間の寛容さと自分への理解。


 この事柄に関して言うのならば僕は本当に救われた人間であろうと、恵まれた人間でわないのかと、そう思わずにはいられない。
 僕の若さが、僕の世間知らずが、僕の頑固さが、そういった人達にとっての格好の話のネタになろうとも僕はそれ以前の好意に対して感謝をしなければいけない。そして、何がしかの恩返しをしなければいけないと思う。

 それが無意識により相手に及ぼしているのではないのかという驕りなんていうクソ食らえな思いなんかではなく、もっと実感として、僕の思いと直結したもので無ければならない。そして、金なんかとか、物質的なものではなくもっと見えない実にもならない様なもので無ければいけないと僕は思う。そして、それをできるように努力をしたいし、していこうとも思う。


 感謝とはこうあるべきなのだ。