肖像写真において撮り手の思想は重要なのだろうか?

 無論構図云々といったものに関して、ひいては撮るという行為自体に意思が伴なうがそれはひとまずおいておき。この人物をこう見せたいのでこの様に撮りますといったところで、「こう見せたいから」という部分は必要なのかと。(補足「こう見せるべきである」と思えてしまったら話は早いだろう。)


 肖像写真単体で完結させると考えた時に、その人物のバックグラウンド、それこそ背景というものをどう処理するかという事が重要になってくる。(その人物にとって何らかの関係がある所)
 背景自体を全く廃してしまい、その人物だけを見せる方法が果たしてそれ自体で完結される肖像写真には有効な手段なのだろうか。
 いやしかし、あまりにも説明的になりすぎてしまうというのも考え物だ。


 その人物と自分の関係性というものは出すべきか出さざるべきか。以前に、出るものなのか出ないものなのか。
 あなたがそこにいて、私がここに来たから私とあなたは会いました。そういった前段階のある種情緒的感情というものは必要ないのであろう。
 だが、いや、どうだろう。