今更になって、いつぞやの誰だかの「写真はまとまらない」的な記述が頭を離れない。


 写真は常にまとまる様なものではなく、いつでも散漫でつかみ所のないものだ。しかし、そうであってはいけないという既成観念というか強迫観念の様なものがいつもつきまとう。というよりも、写真を撮り、人に見せるという過程において、ある一定の「まとまり」は必要であるし、そうでなければいけない。それが、託つけたものであったとしても見せるものの責任として、そうでなければいけない。

 もし、一つん囲いを用意した上でその中にはめ込もうとしたのならば、少なからずはみ出てしまうであろうものが存在する。それが作者の意図と関係あろうが無かろうがは別とした上で、そのはみ出てしまったであろうものを省いてしまう事は面白みを省いてしまうという事にもなりかねない。が、それに気づいていてもあえてそうする事に意味がある。要するに戦略的にならざる終えないという事。そして、何より自分の写真を理解しているという事。そして、それに気づいてしまうという事は面白みを欠いてしまうという事。なのかどうかは解らないが、その様な気がする。


 それに反して、いわゆるドキュメンタリーはそれと反対に、写真としての面白みを超えた「確信犯」的な難解さを持つ。それは、伝える相手の所在という事である。

 相手が誰であろうと、ある一定の方向性というものを提示しなければいけない。それが社会的に否定されうる解釈だとしても作者がそうであると提示せざる終えない。ある意味での数学的視点を持たなければいけない。
 物事には様々な視点が存在し、解釈がある。が、現場に赴けばそれが「そうではないのかもしれない・・・」という疑念に襲われざる終えない。が、そこで考え、その先に出た答えというものに従順に従わなければいけない。それが間違っていようとも正解であろうとも関係無しに、その一点のみを照らし出さなければいけないのかもしれない。
 それはある意味義務の様でもある。その義務を果たさず曖昧なままに、曖昧なままの解で提示するのは不親切というものであろう。だがしかし、そうであるのもまた現実、遺憾ともしがたい現実があるものだ。
 と、考えてしまった時点でドキュメンタリー写真家としての先は途絶えてしまっているのかもしれない。


 しかし、現実はそう容易く語れない。故にまとまらない。

 故に、私が感じた可能性、ないしは、方向性というものを一つに無理矢理詰め込んで、はみ出ているのでいるであろうものを気づかずに、気づいていたとしても盲目的に「まとめて」いく事が重要だと思い込んでいる。