写真をやっている事がある意味重荷になって、面倒臭いと思う事が多々ある。しかし、それでも写真をやっていないと(主に撮影)ストレスが溜まってしまうという矛盾に気づいた時に、やっぱり本当に好きなのかもしれないと思えた。
 しかし、それは自分が何かをしている人間であるという認識を自分がしていなければ自分というものが至極無意味なものに感じてしまうからなのかもしれない。他人と自分は違うんだ。私には生きる意味があるのだと。

 自分がこの場所で、この時代に生きているという微かな爪痕を残さなければいけないという強迫観念を無理矢理に植え付けて稼働しているに過ぎないタンパク質の固まりなのかもしれないと。

 日々タンパク質を摂取し、それを下半身から無理矢理無意味に排出して、ゼラチン質の物質に光を焼き付けて自分が生きているのだという些細で微細な記録を残す事に少なからずの興奮と満足感を得ていると、そう自覚した時に自分は随分と小さくもおこがましいニンゲンであると自覚するのだ。