私はいわゆるコンポら写真と言われるジャンルっぽい写真も撮りますし、いわゆるドキュメンタリーっぽい写真も撮りますし、極私的な写真も撮ります。家へ帰れば鮭でも飲みながらアニメでも見っか!となり、自分はいったいなんなのだとたまに思う事もありつつ、誕生日占いが実にあたっているなーとか、エコすら商売にしてしまう人間てエゲツナイ!とか、まあ色々考えたり、思ったり、行動したりする訳ですがって、そんな表面舐めただけで私がいかなる人間であるかなんて事は自身把握しきれてないのかもしれませんと言うか、出来ていないのは明確な訳で、他者という存在がその曖昧三センチな部分を補完してくれるのだろうと思う。
 もし借りに何者とも接点を持たずというのは余りにも大それているので、関わってはいるが真の意味で自身が関わりきれていない、それは信頼や、尊敬といった実に曖昧かつ主体的な相互関係の中で思えるか思えないかといった部分に頼らざる終えないが、そういったものを欠いてしまっているとするならば私は私たり得ないのかもしれない。それは、ある種鏡の様なもので他者に写る私があってそれを受けて始めて自己というものを確立できるのではないのかという事は、きっと誰かがもはや私の生まれ出流以前に考え出されたものであろう。