ある社会的事象をテーマに写真を撮る時そこに写るであろうものに対して、自分はこの人達を利用しているのだろうという気持ちを抱いてしまう。それは自分が自分の写真によって彼らを救える訳なんて無いと思っているからだろう。

 10代後半の頃青年海外協力隊の説明会に参加した時に、「彼らの為という事もあるが、それ以上に貴方自身の為なのです。」的な事を言われた様な記憶がある。その時は「なんじゃそりゃ」という気持ちで聞いていたが、今になってようやくその意味が分かる様になってきた。

 自分は自分の興味に従いテーマを選び、自分がその事を理解する為に写真を撮っている。その事象や人達を自分が理解したいと言う理由それだけで写真を撮っている。そこから出来たもので少し位は「彼らの事を知ってもらったり何かアクションが起こるかもしれない。」なんて奢る感情を持った時期があまりにも長過ぎた。写真では何も変わらない。何かを変えようと思うならもっと自身が動かなくてはいけない。そもそも私は何かを変えたいと思っているのか?
 それが責任というものなのかもしれない。それを考えながら組み立てるものは実に難しい気がする。自己表現と他者表現の間でどうにか均衡をとりながら人を魅了しなくてはいけないというのは何とも難儀なものだなとつくづく思い知らされる。