表現活動というものは多岐にわたり、それは両極端になってしまえば相互に反発し合い敬遠してしまうという事もいささかしょうがない事なのかもしれない。こと写真においてもそれは言えるのではないのだろうか。ドキュメンタリー写真を主として執り行っているひとはそれ以外に眼をくれる事は稀で、感覚的(私の勝手なカテゴライズ)な写真を執り行っている人はそれ以外の写真に頓着せずに探求を続けている様な気がする。それは私が知らないだけで、勝手に思い込んでいるだけかもしれないが、それはもの凄く損をしている様にしか思えない。
 私は写真界にとっては未だ若輩者で、若さ溢れる青年的な位置に居るからかもしれないし、事実中堅と言われる年齢でも地位でも無いからかもしれないが、それら全てを見たいし、いまいち理解出来ないものでも、それを見る事に対して貪欲でありたいし盗めるものなら盗みたいとも思っている。
 先に上げた「ドキュメンタリー的」ものと「感覚的写真」の間に起きてすらいない摩擦を、もっと近づけば良いとひたすらに思っている。それは制作者側個々人の感情や感覚的なもの以上に、見る側の人達にその垣根と思えるもの(見えない壁的なATフィールド的な)をいかにして排除出来るかという事に繋がるのではないだろうか。
 常々というか、ここ最近は「作品制作は自己探求であって、他者からの共感を求めるものではない」的な事を心情により取り組んでいるが、どうしても見せるという行為の前では他者というエネミーが私を悩ませてくる。それを駆逐する方法をどうにかひねり出さなくてはいけないと思えてくるし、その考えを変えてみたいという欲求にもかられてしまう。
 そして、その考えすら変えてもらいたいと密やかながら思ってしまう。多分私は「変えるか、変えられるか」という架空の戦争をしているのかもしれない。団体行動が嫌で野球から空手(ブルース・リー大好き的な意味も含めつつ)へ部活を替え、競う事が嫌で写真へ替えても、未だに見えない何かと競い続けているのかもしれない。競う事が愚かだと思いながら見えない何かと競い続けているのだと思う事は実に情けないが、その相手が大きければ大きい程に私は頭に血が上る。大きいものは壊してしまえば良いと思っている。すんません。


 そして、私が何故だかそう思ってしまったのは後に上げる二つのサイトを見ていたからだ。二つとも常に観覧させていただいているが、日が悪かった、泥酔だ、私が。両者ともに非がある。それは素晴らしいという事だ。


菊池良助 http://d.hatena.ne.jp/rufuto2007/
 私はこの方がどうしてこんな組み方をするのかは理解出来ないが、感覚的な部分では理解出来そうな気がする。一度ソロでの個展を是非見てみたいと思う。ある種のザワつきを感じてしまう。


谷敦志 http://ashibuya.tea-nifty.com/
 溢れ出るヒューマニズム。最近やっている「親子のとき」というシリーズが実に人間性や経験から出る真意を感じられて引かれる。コニカミノルタでの展示を見た時のインパクトは忘れられない。


 どうすれば、見たものが見せられるのか、見せたいものを見せたい様に小細工する事は実に難解で、結局見せたいものを見せたい様にやってしまって悔いてみたりしてしまう。