クリシュナムルティというインドの哲学者がいる。彼の事を知ったのはTwitterbotだ。彼の名言が度々私のTLに流れてくる度に彼の目指していた所が、高校生の頃に薄らと思っていた事に恐れ多くも似ていて、それを言葉にしている様でいつも考えさせられる。

 私が今何故写真を撮っているかと問われたら、私は大体「真理を知りたいから」と答えている。それは身体的なものや視覚的なものを探求するという事とは違い。
 私が、地域や社会との繋がりの中で、世界を理解する過程の中でその一端でも垣間見ようという試みであると理解している。
 どうしてこの様な状況が起きているのか、どうしてこの様な状況が続いているのか、そこにいる人間は何を考えているのか。そういった事を知りたいという欲求を衝動として行動していく過程で、細部にいくつもある事実を並べて真実を理解する過程で、それが出来るのではないのかと考えている。


 話しはそれたがTwitterで書いた事を少しメモしておこうということだ。

 真理がどこにあるかを求めた瞬間に、真理など見えなくなってしまう。的な部分において、意識の外れた部分やある種の日常的高揚状態になった時に真理を見た様な気分になる。しかしながらそれはそこに真理があると、後に思ったからなのかもしれない。それは真理ではない。
 では、果たして写真という手段で真理というものを得る事が可能なのだろうか。多分否だろう。彼の論んじる所では記憶と欲望が争いを生むという。写真はある一定の領域では記憶であり、それを用いて何者かに成ろうとしている自分には欲望がある。

 彼は関係を理解する事によって人の生を理解出来ると述べている。それは自身においての物事の関わりがどの様なものかという事を理解する事で自己を理解出来ると私は解釈した。ということは、真理とは自己の理解の上に成り立つものであって、他者や社会、ひいては世界を理解するには自己を理解しなくては始まらないという事で、それ自体が大変用意ではないという事が十分に理解出来た。
 完全に受動的になるには自己を理解した上で事象に立ち向かい、その上で目の前の事をフラットにどうにかしろって事で、そんなもんでできなーよ!って話しだけど、その後のプロセスでニュートラルにしてこうって