春はまだまだ遠い様に感じられる風が肌をすり抜けていた。日差しだけは眩しくて、春分の日を河川敷で過ごす人達が一層眩しく栄えて見えた。猫が日向で寝ている姿は可愛さの固まりで、隣でいそいそと昼食の準備をするホームレスの老人すらも愛嬌をもって見えてくる。60歳以上のスローソフトボールは果てしなく温く、少年野球を見ている方がすりリングだった。傍らで出番の無い少年達が戯れている中で一つの性癖が垣間見える。少年同士は何かの秘め事の様な雰囲気を出しながらさらりとキスをした。その時の胸のザワつきは新宿二丁目で白昼フェラチオとは比べ物にならない程だった。彼らの未来を想像しながらカモの起こす波紋の美しさに何かの真理を見つけようとしたが叶わずに、主無きバラックのクスリを照らす陽光に無情を感じた。辺りに散らばるペットボトルや空き缶、ビニール袋が宝石の様に輝く中が永遠に続きそうに思えていたかもしれない彼の人は今どこで何をしているのだろうかという想像を巡らせながら隣のバラックではゴム手袋なんかが干されていて、生活というものはどこにでもあるのだと、先ほど見えた集合住宅を思い出す。飛んで行く飛行機を眺める人は鳥を眺める人とたいして佇まいは変わらずに、生か鉄かの違いにしか思えなかった。鳥居は破損しても尚その威光は変わらなかった。菜の花と梅と申し訳程度の桜。