写真界においてもヒエラルキーは存在する。

 特に森山大道氏のヒエラルキーは途轍もない大きさである。他にもアラーキー派や蜷川実花派などが代表格であろう。それらの構成員はやはり、憧れにも似た気持ちでシャッターを切り、頂点を目指そうとする。それが不毛な作業だとも知らず。

 あるときふと気付くだろう。「俺何やってんだ?」そう、頂点を目指しても辿り着かないのだ。むしろそんなもの元から無いようなもので、別の次元で執り行われている儀式の様なものだ。
 早期発見を出来たなら吉。もし見つかるのが遅かったら一生そのスパイラルから抜け出せず、もし抜け出せた時は写真を止めてしまっているかもしれない。


 保守的写真というものにばかり憧れて、アバンギャルドな視点でモノを見れないというのはやはり悲しいことなのかもしれない。しかし、物事には段階というものが存在する。真似てみて初めて気付く事もある。そこから飛躍できるかは、やはり自己の問題であろう。

 自分も速く飛躍したいものだ。マジで