本当に申し訳ない話だが「webに転がっている写真を拾って、プリントアウトし壁に貼っている」という記事をどこかで読んだ。「どこか」の部分が申し訳ないが、忘れたという話。そして、それに起因して思考をめぐらせてみる。例によって労働中に。


 ハードドキュメンタリーを除いて、単一写真には写真家の意思など存在しない。いや、ハードな写真にも写真家の意思などは存在せず、タダそこにある現実の一つとしてのみ意味を持つだろう。しかし、そこへ写真家の意思を植え込むにはやはり、シークエンスによってのみ意思を見る側へ伝達できるのではないか。

 例えば上の発言のようにweb上に点在している写真を集めて適当に調節して、自分の意図したように並べ提示すれば、それはその写真家の作品になりかねないのではないのか。


 一枚見せられても何もいえません。「いいでしょ」「いやいいけども・・・」となりかねないし、良いとか悪いとか無いよ。
 構図がとか、色合いがとか、そんなもの対して意味が無い。と言うよりも、その程度の事は出来て当たり前の領域で、見せるための努力でしかない。
 よって僕は30枚位の組写真しか見れないという言い訳なのである。


 追伸:俺俺!!その記事書いたの俺よ!!って方がいらしゃったら。コメント欄にでもリンクを張っていただけると幸いです。