ある対象、特に社会性の強い対象を追っていたとして、それが他人で全く自分にとっては未知の世界で、興味が先行しているとも解からずに撮り始めるという事は用意だ。しかし、途中で「どうして自分たちを撮るのか?」と言った質問をされたらどうだろう。的確な返答が僕には出来るだろうか。


 もしそれが、撮り始める前段階においてとても親密な相手がその対象であったとしたらどうだろうか。僕は少しの後ろめたさを覚えてしまう。知ってしまったが故の躊躇い、いきなり身近になってしまった現実に対してのアプローチの仕方とは実に難しいものに感じる。
 その壁のようなものを越えた時にはきっとすばらしいものが得られるのかもしれないが、はたしてそれが僕にとって有益なものなのだろうか。

 ある一方の考えでは有益であるが、もし、万が一、踏み外そうものなら大切な一方が失われてしまいかねないのではないか。


 相手のことを理解しないまま撮り始めるのは暴力に等しいかもしれないが、写真とはそういうものなのだろうか。ドキュメンタリーとはそういうものなのだろうか。利害の一致を見せないまま進む事の後ろめたさと、躊躇いはやはり否めない。