世間一般で言われているフォトジャーナリストやドキュメンタリー写真家というものは、渡航前はどういった心境なのだろう。

 やはり、「やってやるぞ!」とか、「俺しかいないんだ!」とか、そういった意気込みで挑んでいくのだろうか。それとも、「ああ、出来ればいきたくない。」とか、「べつにいんじゃね?」とかといった消極的境地に陥っているのだろうか。

 未だもって、友人にも、ましてや著名な方々にもお聞きした事が無いが、今の自分はというと「めんどい」といった心境だ。いつもそうだ。
 今回は特にやる事が決まっているのでその度合いが大きい。

 が、その反対で「ようやっと出来るんだ。やってやらねば。」といった感情も漂っている。


 多摩川をナントナク撮り続けている事がどれだけ気楽な事か、日本で暮らせている事がどれだけ安全な事か、こういった状況にならなければ思えない事なのかもしれない。


 別に戦場に行くわけでも、テロリストにコンタクトをとるわけでも、反政府軍にコンタクトをとる訳でもないのに何故だか無償に恐怖が、厄介だと思う気持ちが押し寄せてくる。


 常々写真を撮る事には責任が伴うと思っているが、その対象によって責任の大はやはり異なるものだと思う。自分の回りだけを撮っているのであればさほど責任の度合いは高いものではないが、それが外、しかもパブリックな対象となるとその度合いは雲泥の差である。
 事件に大きいも小さいも無いなどと、どこかの映像で見聞きした事があるが、そんな事はありえない。それと同じで写真の対照が異なればその責任の度合いも異なるものだと自分は思っている。
 とったからには発表をしなければいけない。そして、多くの人間に見せなければいけないと。そして、そこから何かしらのアクションを起こさねばいけないと思う。もし、そこから何もアクションが怒らなかったとしたらそれは自分の責であり、自己の不甲斐なさに叱咤しなければいけないという事であろう。


 何はともあれ、明日日本を発たねばいけない。嫌だとか訳の解からない事など言って入られない。自分のすべき事をしなければいけない。
 今回はファーストコンタクトだからという言い訳は許されない。今回がラストだと・・・というのは言いすぎだが、自分の雛形を作る事を最低限の目標にして「頑張る」そう。いつもはしない「頑張る」をするのだ。