私の都合のいい様に現実をついばみ、それを腹の中で消化したうえで、糞尿の様にとまでは言わないし、言いたくもないが、一つの固まりとして吐き出すという行為はどこかDJ作業にも似ている。

 というDJ作業に似ているとか似ていないとか言うのはどうでも良いのだが、私は私の知りうるものしか表現出来ず、私が認めたものしか表せないという事に対して至極不便を感じてしまう。しかし、それはある意味で、私が絶対者であるという事の裏返しの様にも思えてくる。

 絶対者とは何か。

 そもそも絶対というものを私は好まない。この時点で矛盾が生じてしまっている事は承知している。しかし、それは私が知りうること自体が全てであると思い込んでしまっているのではないのかという危惧に気付かせてくれる最も直接的な思い込みなのかもしれない。

 私が誇張して表している現実というものは実に狭く、一方的過ぎるものなのかもしれない。それをいくら繰り返したとしてもそれは、「私の見ている」という主観でしかなくそれ以上やそれ以外にはなり得ない。そして、それを容認する他者というのも全てには及ばず全体の巨大さに気付かざる終えない。

 しかし、その巨大さ故に見るという事を、この人類が知覚しうる世界ですら、言語で説明しえる世界ですらそのすべてを見ようという事をあきらめてしまう上に、不可能だという諦めすらうんでしまう。