人は大体不幸な物なんて見ようとはしない。見えているけれどもその情報をどこかに追いやって見ていない事にしてしまうか、見たという認識のすぐ先にある別の物の方へ意識を向けてしまう。私も多分そんな所だ。その事に対して歩を止めたりなんかせずに歩んでしまうだろう。
 だが、たまに本当に私の中でこれはいかがと思う物に眼が奪われてしまう。それは、素晴らしいと思う物と同様の衝撃があるからだ。そんな物をみすみす見逃せる訳なんてない。

 そう思った時に。その両極端でありながら同じ強度を持った感動をどう伝えるべきかという事に頭を悩まされてしまう。しかし、そんなものは結局感動の大きさで選んでしまえば、実は同じ様な物で自ずと見えてきたりする。
 下手に考えて並べてみたりするよりもっと明確に見えてきたりする。それは多分繰り返しの作業の途方もなさに飽きてきた時に見えてくるのではなかろうか。