ハイチでの大地震のニュースが日に日に少なくなってきているのかもしれない。というのも、正直私はテレビも新聞もあまり見る習慣がないので正確な所が解らない。先日はヘリコプターから救援物資を投下して、それを巡って小競り合いが起きていたり、強奪に怒って店主が銃を持ち出していたりと、眼に見える形で秩序が崩壊しているのを画面越しに見て心底驚いたと共に、どうしてここで起こるのか?という落胆の息を吐いた。
 そして、やはりこういった速報は映像でこそたりえるのではないのかと思った。












 これらの写真はhttp://gigazine.net/index.php?/news/comments/20100115_earthquake_in_haiti/から、http://www.boston.com/bigpicture/2010/01/haiti_48_hours_later.htmlhttp://www.boston.com/bigpicture/2010/01/earthquake_in_haiti.htmlへとんで選んで加工したものだ。

 私はこういった写真を否定するつもりはない。しかし、これでは映像に匹敵するインパクトは得られないのではないだろうかと思う。そして、それはこの様に加工される事(モノクロ写真になる事)によってさらに弱まるのではないだろうかと考えてしまう。
 それは多分音声や彼らの前後行動などもふまえて、その映像を見て、見ながら考える事が出来るからではないだろうか。無論写真でもある程度はそういった思案を出来るかもしれないが、それが一つのまとまりとして見えてくるにはそこそこの時間を要するのではないだろうか。

 そう思った時にニュースに取っ手の写真というものの役割はもの凄く小さなものに思えてしまう。フォトジャーナリズムは死んだとどこかで聞いたか読んだ貸した記憶があるが、それは本当なのかもしれない。しかし、それでこそフォトドキュメンタリーがこれから何をすべきかという事が見えてくるのではないだろうか。
 正直自分も実際何をすべきかという事は明確になってはいないが、もうそろそろしっかりと写真は写真の道を歩むべきであるという事だけは明確だ。


 あ、何か偉そう。