人と話す事は良い事だ。特にドSな人とのディスカッションは落胆と考え込む事を与えてくれる。


 フォトドキュメンタリーの必然性という事を考えた時に私は何をすれば良いかという事は常々考えている事で、多分世間に流布する上で重宝されるのはどんなものかと考えた時に、それはニュース的な写真(一枚で何が起きているか解る様な感じ)であれば、それは重宝されるだろうし、もっと意思を持って訴えかけたいのであればムービードキュメンタリーの方が直接的(そうで無い事もあり得るし、私はそっちの方が好きっぽい)に訴えかけられる様に感じるし、もし上手い事いけばテレビなんかで放送されるかもしれない。
 一方写真はせいぜい取り上げられたとして新聞で一枚二枚といった単位で文章が付録程度に付く感じで、雑誌に載せていただける機会があったとしても10枚いったら良い方で、文章が付録程度に付く感じだろう。そして、それに加えて何かしらの事情が絡んで歪曲されるなんて事もあり得る。
 そう考えたらこんなに不便な啓蒙活動はないのではないだろうか。多分文章であろうが映画(ザ・コーヴではないが)であろうがそんな障害や周りの無関心に振り回されているのかもしれない。

 そうなったらもう好き勝手やってやろうってなるけど、そこは内緒にして、何となく理由を付けてみる事にしてみる。

 写真である意味というものは第一に立ち止まる事の出来る部分かもしれない。それに関しては文章でも出来るかもしれないが、一応動画には出来ない。そして、ビジュアルという部分では文章には出来ないが、動画には音声と一緒に流れていく。
 そう考えると(もっとあるだろ)立ち止まる事の出来るビジュアルイメージとちょっとした文という事になる。文はおまけ程度に私は大体考えているので、ビジュアルイメージとしての写真という事に必然的に焦点が当たってくる。
 そうした時に考えなければいけない事は、長い事視線に耐えられる画像でなければいけないという事だ。それは見た目としての美しさであったり、そこに写っている人であれば考え込ませる様な表情であったり、風景であれば・・・解らんけど、漂う系な感じであったり、ある程度の直接的に訴えかけるものではなくイメージとして某かの意味がありそうでない様なものでなければいけないのかもしれない。
 しかし、結局はドキュメンタリーとして成立させなければいけないので決定的(意味が成立する)な写真が必要になってくる。その中でいかに見せるかという事を意識した写真を提示する事は必然なのではないだろうか。

 意味が明確に有るものの間に、明確ではない意味ありげな写真を挿入する事によって生まれる一時停止、そこに生まれる前後確認から来る扇情的な思考に期待する事がある意味でフォトドキュメンタリーを存在させたい理由かもしれない。


 しかし、啓蒙活動という部分に注目して考えれば最も人々に身近な衣服になどになんだかんだ施してしまうとか、広告として映像や写真を流してしまうのが手っ取り早いのかもしれないが、それが果たして成功するかは謎だ。(Adam Broomberg Oliver Chanarinが有名な衣料品の広告でやったらしい。でも、そのメーカーが思い出せない)

 結局関心のない人を引きつけるには、何か魅了する術を編み出さなければいけない。それが映像としての美しさとか何だか解らないカリスマ性とかエンターテインメント的な面白さとか、いまいち解らないけれど、今時のエコに載せて打ち出せたら良いのかもしれない。
 果たしてそれが正解かも解らずに、ただ写真でやってしまっている自分がいるだけだ。