原子力発電というものは意外と不便で常に全力疾走をしていなければいけないもので、昼夜問わず同じくらいの発電量を出す。(チェルノブイリで行われていた一時的に発電量を減らす方法もあるが、それは日本の法律で駄目ってことになっている。現実的には大丈夫だそうだが)それに伴うオール電化宣伝や、二酸化炭素を出さないクリーンエネルギーなんて文句で世の中には触れ回っている。反面、二酸化炭素以上に厄介な核廃棄物を出し、使用停止になったとしてもその土地や産業廃棄物となったコンクリートや鉄なども放射能廃棄物として存在し続けなければいけない。それは3万年という途方もない年月にわたって影響し続ける。そして、万一何かしらの切っ掛けでドカンと溢れ出てしまう恐れもある。
 こんな厄介な発電施設をこれ以上増やす必要はないだろう。


 と言うのは反対派の意見だし、私も同感だ。しかし、それを受けいれ(正確には反対していたが、今となってはどうしようもない)生活していた私にとっては常にあり続ける何か巨大なモノでしかなかった。それが危険で怖いものだなんて微塵も感じなかったし、何より原子力PRセンターが楽しくてしょうがなかった。
 そんなふうに育った私は18歳で東京に出てきて、写真を初めて、インターネットという大海原や様々な人間と出会い色々な経験をして初めてその危険性に触れた。それが危険だなんていっさい考えずに育ってきた私にとってはセンセーショナル以外の何者でもなかった。


 未だに私の中でそれが正しいのか、正しくないのかという事はいまいち掴めてはいない。しかし、もしも最悪の奇跡が起こったとしたら私の家族や見知る人達は一瞬にして消えてしまうだろうし、私自身も消えてしまうかもしれない。
 そんな事を考えていると故郷が愛おしくてしょうがない。真面目にしっかり捉えて記録しなければいけないという気持ちが芽生えてくる。



 もの凄く自己中心的な考えかもしれないが、多分彼らは昔の私の様にそういった危機感は感じていないのだろう。もしくは、もの凄い覚悟の中でそんなものを超越して平静を保っているのかもしれない。
 もう出来てしまった物や、起きてしまった事を否定することに私はあまり意味を感じない。これから先に何をするか、何を選ぶかという事を私は考えたいし、考えてほしい。