私は自分が大好きなので自分の名前を検索して様々見て歩く訳です。そんなふうに色々見ていると私の言葉を聞いて、写真を見て色々思ったのでしょう、コメントをしてくれている人が数人居まして大変嬉しい訳ですけれど、そういった人達が元々持ち合わせている思考というものによって私の作品を理解しているという事が解る訳ですが、それがあらぬ方向にいってしまっていると正直喜んでも居られなくなってしまいます。

 私は常々作品には見る人の多様な考えが及べば良いと思いながら、その幅をある程度狭める様な作品作りをしてきたつもりですが、それが甘かったのではないか?とか、明確な指針を設けるべきではなかったのか?とか、まあ、色々考えさせられる訳です。
 世の中には様々なコミュニティーがあり、その興味の対象は計り知れません。と、まあ気付かされた訳です。まさかそこまで深く自分サイドに持っていかれるとは想像もしていなかった訳で、写真はまあともかくとして、自分自身の言葉というモノの重みを痛感したとともに、しっかり伝えなければいけないのだなと思うんだけど、思っていること自体が中道的でしょうもないので結局の所強く発言しても何も変わらないのかなと思います。

 結局写真と言うものは、いや、私が未熟で無名であるから故に様々な解釈を経てしまうのかもしれません。


 ある友人がある雑誌に掲載された際に全く意図とは違う方向に作品の趣旨が流され、トリミングされたと話していましたが、そういった別の思惑に回収されてしまう様ではいけないとは思いつつ、露出や金銭に目がくらんでしまうのも事実です。私だって多分そうです。
 しかし、そこで収まらない程のパッション的何かが私には必要なのかもしれません。