私が見たものというのは大体が記憶の片隅に追いやられ、数日過ぎてしまえば忘れてしまい事実であったのか虚実であったのかすら曖昧になってしまう。それを引き出す装置として写真は実に都合のいいものだ。
 私が忘れかけていた記憶を自身の写真から引き出す事は容易であるし、それは実に当たり前だ。しかし、その反復する記憶の想起から失われていく事実的印象と作り出されていく虚実的印象というものが私にとって本当の記憶であると考えている。
 だが、他者によって撮影された写真においても同じ事が私の中では生じる。どこかで見たかもしれないという錯覚は私の記憶を無理矢理に引っ張り出す。それは予想もしなかった部分から無理矢理に引っ張り出され、事実とも言い難く虚実とも言い難いものへ変化を遂げる。その様な瞬間が写真としての価値を見いだせた時ではないのだろうか。


 いつ書いたのか忘れてしまったが、私がその時写真というものに対して抱いていた思いをちょっとかっこ良く書こうと思って書いた文章だ。
 今読んで少しだけ恥ずかしいが、多分酔っていなければ凄く恥ずかしい文章だと感じて明日には消してしまいたくなる位恥ずかしい文章だろう。だが、消さない様にここに「消しちゃ駄目!!」と書いておけば私は消さないだろう。


 今、酔っぱらった私の写真観を書くとすれば「こうやって酔っぱらって消えていく様なイメージとか言葉と同じ様に記憶なんてものはさっぱり覚えていられない様なものだから写真に撮っておいて後から確かめて、そうかー、なんつって確認しながら記憶をたどる様な物なんだろう。そして、その反復から選りすぐられた写真を見せる事によって私というフィルターを通して某かの印象を脳みそとか網膜とか心(こころ)的な物に残して、たまに「そうかー」って思わせる為に写真であるんじゃないのかねー」
 記憶で浮かぶのはたいてい静止画でしょ?たまに動画が流れちゃうけど、勝るのは静止画でしょ!?ね!!


 っていうのはドキュメンタリーっぽい私の写真に関しても同じ感じで「そうかー」って感じがもの凄く重要な気がしている。「そうかーこういったことが起きているんだと」いう感覚をいかに身近な感覚に近づけていけるかということが重要だと思っていて、それが非日常性で終わってしまう様な物ではなく親近感と非日常性(あってないよね)の間に主題を置く事で、その揺らぎとかそういったものを提供出来ればなーなんて思っていて、物事の解決とかは多分写真なんかじゃ出来ないので最低限そこだけは提供しながら揺さぶっていきたいなーって思ってたりするけれども、自分としてはまあ、良くなったら良いよね!!とは思っています。それは彼らの現状だけではなく、見た人の心(こころ)的なものも含めてです。難しいです。