自分の中に沢山の自分が介在して、状況や人間に対して使い分けているという事は無いだろうか。

 交友度や、現状況における期限などももちろん関係してくるのは当たり前として、その人間に対して自分はこうでなければいけないのだとか、ここではこの自分でいようと無意識の内にしているのかもしれない。あるいは意識的にしているのかもしれない。


 以前友人と話をしていた時に彼は意図的に自分を各個人に対して変えていると言っていた。さらには、誰にでも感情移入を出来る様になってきたとまで言っていた。

 ある意味ではそれが最強のコミュニケーション能力なのかもしれないが、どこか自分の中では常に誰に対しても一定の自分で居なければいけないのではないのかという、強迫観念の様なものがある。
 それはきっと昔からの人見知りな性格がそうさせているのかもしれないし、平等の精神とまでは言わないが、そういった類の思いがそさせているのかもしれない。しかし、ある意味ではそれはとても人間的ではないのかも知れないし、上手なコミュニケーションを行うにあたってとても不利益なものの様にも思えてくる。

 「自分て誰なの?」なんてくだらない事を考えるつもりは無いが、ある一定の自分軸を持ち、それからあまりにもかけ離れない程度の節度を持って、人と関わっていく事が重要だろう。


 特に取材や、いきなり撮影をお願いする様な場面に関しては、最も重要な事だと思う。そう考えると自分は人に声をかける時には物凄く自分の人見知り名性格をぶっ潰して、「この人間は悪そうな人間ではない」とか、「何だか面白そうな人だ」と思わせようと、そんなそぶりや表情をしているんだろうなと思った。

 アレは確実にいつもの自分ではない。酒でも飲まない限りあんな行動は取れない。ある意味トランス状態なのかもしれない。


 数少ない自分の中の自分を際限なく増やし続け、ありとあらゆる人間と会話を出来る様にしたいものだ。だけど、それってとても怖い。