僕の頭の中で描いている現実は実に清潔で、輝いているにも関わらず、目の前に広がる現実は実に陳腐で退屈なものだ。しかしそれは当たり前のことで、出来るだけ頭の中の現実に近づけようとしてみる。けれど、どうにも、うまくいかないものでたじろいでしまう。

 東京はもっと刺激的だけれどもどこか落ち着きを持っていて、何も手に入りそうで入らなそうな、そんな不安定な所で、憧れだけが先行していた昔よりも重みを増して目の前に広がるその光景に僕はどこかもどかしさを感じながらも、頭の中で描いている現実に出来るだけ近づけようと行動している。しようとしている。


 思うに、詩人や画家などは自分の頭の中で描いている現実と、目の前の現実のギャップに対して違和感を覚えないのだろうか?いや、きっと覚えているだろうがそれを受け入れられるのだろうか?肯定できるのであろうか?

 写真家に関して言うのであれば、それはいたしかない事で、目の前にあるものこそのみ写す事を許可された、絶対的存在であるので受け入れざる終えない。
 その上で、頭の中の現実とのギャップをある意味で作品へと反映させていかなくてはいけないという義務にも似たものが生じるのであろうと。故に写真家は、それをも受け入れていく必要性が生じるのであろうと。


 と、書いてみたは良いけれど、はたして本当にそうなのであろうかという疑問が読んでいて思われた。