今回、「第三回Reminders Showcase「見る機会」」に参加してみて一番感じたことは、自分が人前に出るとアワアワなって喋れないということであった。ということはさて置いて、写真発表に置ける可能性と、映像に関する発表媒体の所在に関して、という事だ。

 今回の企画においてスライドショーというものがどういったものか、どういった効果があるか。という事を大いに考えさせられた。それは、制作者の意思というものが多いに反映されるという事だ。
 そして、私はある意味で映画的な要素が強いのではないのかと思う。特に音だ。

 音というものは言葉と同程度の誘導力を持ち得る存在であろう。様々な映画、私が最近見たロジャーアンドミーやフルメタルジャケットなどで、それを激しく感じた。ある意味で皮肉った映画であるが、その中で音楽というものがその大きな要因だと私は思う。
 それと同じ様にスライドショーにおいての音というものは重要な要因になり得るであろう。暗い音楽を流せばその写真が明るい笑顔の写真でも何か裏があるのではないのかという気持ちにさせ、無表情の写真に軽快なポップを流せば楽しげに見えてくるものだ。


 その場の音や対象の肉声、撮影者の声、そういったものには大きな説得力がある。
 そして、それはこちら側の意思を容易に伝えられるという事であり、ある意味で写真の魅力を損ねかねないという事になってくる。ジャーナリスティックなものにおいては有益なものになり得るが、そうでない者にとってはある意味で不利な状況ともいえるであろう。ドキュメンタリーはそこにあるものではなく、それを見た人間が作り上げてしまうという事にもつながってくるのではないだろうか。


 私は少なからず写真原理主義的思想を持っているかもしれないのだが、これは写真とはまた違う領域でのモノの様に思う。今回の経験で私は「映画ースライドショーー写真」といった図式を頭の中で作ってしまった。


 それと、先ほどの事もふまえた上で動画というものの存在である。

 いろいろな新聞社などのウェブサイトを見てもらえば解る様に現在アメリカメディアのウェブ展開に置いて動画というものの需要が大きくなっている。その中で薄れいく写真の需要と動画の可能性というものに私は気づいてしまった。というよりも「俺もやろっかな?」なんて事を考えてしまった。
 組み合わせる云々とは別にして、映像というもの、ウェブというもののあり方としての一つの手段になりうると今更ながら確信できた。