どんどん自分がおかしくなっていくのではないのかと思う。

 以前は多少なりとも悲しい顔や、少なからずの涙を流していると、もの凄くつらい気持ちになった。何故撮っているのか?それ以前に何故ここに居るのか?何だか自分が自分ではない様な感覚に陥るというか、テレビや新聞の中にでも入ってきてしまったかの様な感覚に近いものを感じた。それは今でも変わらない。

 しかし、今回の撮影に関してはそういったの感情をあまり感じなくなってきてしまった。いや、感じている。感じているがそれを感じない様にしようと無意識にしているのかもしれない。

「泣いている。そのままでいてくれ。そう・・・」

 こんな感じで私は心の中、あるいは小さくつぶやきながら写真を撮っている。それがもの凄く嫌だ。

 しかし、そうでもしなければ冷静に写真など撮れない。そもそも写真など撮れない。あんな所でどうしてカメラを向けられるのか、伝えたいという気持ち、なんて言うものは私の中では関与してきていないのかもしれない。勿論、始めの時はそういった気持ちが多くを占めていたし、使命の様なものすら感じていた。しかし、そういった自己脅迫にも似た思いだけではここまではならなかったと思う。

 初日に見た慟哭。泣き叫ぶという事を目の当たりした時から私は変わってしまったのかもしれない。あの衝撃は忘れられない。あの状況で写真がどうして撮れようか。唖然とするとはこの事だと私は今になって思う。
 人があれほどまでに泣き叫ぶのだという事、腰が抜けて立てなくなって人に支えられてようやく垂直してられるのだという事、小鳥がさえずる中にそれを遮るその慟哭に私は凄まじい衝撃を感じた。そして、それは今もなお脳みその主要な部分のどこかにこびり付き鮮明に思い起こさせる。
 この経験は私の中で、永遠に思い起こさせる部分になってしまうのだろうか。そして、私はこのまま人の涙に無感になっていってしまうのだろうか。